福原満洲雄 (1905-2007)

我が国の常微分方程式論の開拓者である福原満洲雄博士は,昭和6年4月から昭和12年3月まで北海道大学理学部数学教室に講師,助教授として在籍しました。その間,常微分方程式の基礎理論で重要な成果を挙げると共に,入江盛一,佐藤徳意をはじめとする学生を指導しました。

昭和12年4月,九州大学に教授として転任してからは日本数学会函数方程式論分科会設立(1947),機関誌「函数方程式」(和文) (1947-1976)の創刊,昭和23年東京大学に転任してからは国際学術雑誌 Funkcialaj Ekvacioj (1958-)の創刊に尽力しました。

その後,日本数学会理事長(昭和26年度,29-30年度,35年度,46年度),京都大学数理解析研究所所長(昭和38-43年度),東京農工大学学長(昭和48-53年度)を歴任し,昭和38年には「微分方程式の研究」で日本学士院賞を受賞しました。

その間,基礎から応用まで幅広い数学研究の振興を一貫して強調しました。次は上記「函数方程式」創刊の辞(1947)からの引用です。


戦争が進むにつれて数学者の多くが応用方面へ転向して行った。祖国が存亡に関する戦争を行っている時数学者も無関心ではあり得ないことは当然である。戦争も知らずに研究を続けていた学者があったというような過去の逸話は学者にとって決して名誉な話とは思わない。しかし学問の本質が戦争のあるなしによって変化するはずのものではない。戦争と共に急角度に転回したように見え る数学者も学問に対する態度は本質的に変わったとは思えない。それ故そういう人達は終戦と共に再び戦前の状態に戻ってしまうであろう。外見上の変化は本質的な変化を意味しはしない。

かつて我々少数の者が応用数学の重要性,純粋数学の応用方面との接触の必要性を強調した時,殆ど何の反響も示さず,抽象的であるほど,より一般的であるほど高い数学であるかの如く考え,応用数学を純粋数学と同じ水準に置こうとしなかった数学界が,戦時急に数学の応用を問題にし始めたことなどは,却って応用数学を甘く見ていた証拠とも言えよう。戦争の結果本質的な変化を遂げた人達もあるであろうが、外見だけの変化をした人達との差は今後の動向に現れるであろう。

勿論本質的な変化をした方がよいか悪いかとか言うのではない。表面の変化と本質的な変化とをはっきり区別する必要があることを注意したいのである。今後の数学界の再建設は過去の地位などに拘泥することなく,専門的な業績のみでなく,その思想的内容にも重点を置いてよい指導者を選出することが大切である。それには専門的な教育を受けた人達が学問に対して正しい批判力を持つことが必要である。しかし日本人の思想の貧困は数学界においても争えない事実である。そこに数学界再建に当たって重要な課題がある。