理念

—合意言語としての数理科学—

現代における大学に課せられた大きな課題のひとつは,不確定性が増大し,複雑,多様化している社会において,どのようにして信頼感のある安心・安全な社会を形成し,持続的な発展をして行けるかについて指針を示すことである。これら待つことが許されない課題には全人類の叡智を結集し,合意のプロセスの道作りが不可欠である。最も困難な問題は「将来像に関わる予測」に対し,異なる立場を超えた合意を如何に形成するかである。現在のところ,科学的根拠とりわけ数理科学に基づく知見とデータがその解決への推進力の大きな力となり得る。

具体的な例を挙げよう。地球温暖化に関する第4次IPCC統合報告書において,今後50年における全地球平均温度が2.0度の上昇は高い確率で不可避であることが大きな説得力をもつのは,その背後に300人を超える研究グループが,国が異なり,手法も異なるにも関わらす,ほぼ同じ結論を出していることにある。そしてそれを可能にしているのは,数理モデルの構築を可能にした広義の地球環境科学と関連諸分野の総合的協力と,力学系,統計学をはじめとする基礎数理科学及び計算機の飛躍的発展である。「1週間後の天気さえ予測できないのに,50年先の地球がどうしてわかるのか?」について明確に答えることができるのは,数理科学の下支えなくしてあり得ない。

ミクロレベルでの生命科学の発展も近年著しい。バイオイメージングひとつ取り上げても,膨大な時空間データが蓄積されており,その分解能は今後益々上がるであろう。
しかしそこにおけるダイナミクスが何によって駆動され,生命体全体の中でどのような役割を果たしているのかについて,我々はほとんど何も知らない。

一方で数理科学は既に「見えない形」で既に我々の生活に入り込み,意思決定にも本質的役割を果たしつつある。携帯電話でどのレストランに行くか迷っているときに,「ベイズの定理」があなた好みの場所を選んでくれるのである。

また近年様々な感染症が人類を脅かし,その対策も急務である。それらは実験することが不可能であり,必然的に実効的対策は数理モデルに頼らねばならない。ゲノム解析からマクロな伝播ネットワークダイナミクスまで数理科学の肩にかかる期待は大きい。

—異分野をつなぐ知のプラットフォーム構築に向けて—

北海道大学はこれらすべての課題に対し,優れた研究クラスターを有しフロントランナーであり,一部には横断的研究組織も進んでいる。しかし近代科学の宿命としての「細分化」は避けがたく,太い横断的思想なしには,時間の経過と共に先鋭化しつつ孤立した研究クラスターの集団となる可能性が高い。北海道大学はその総合大学としてのポテンシャルを生かし,異分野間の知的触発を促進し,文理全体を視野に入れ,社会的ニーズに俯瞰的,総合的に応えうるプラットフォームを構築する必要がある。そのための第一歩として全国に先駆けて北大では平成15年に「創成科学研究機構(現・創成研究機構)」を北キャンパスに創設し,多くの活動を積み重ね,平成20年度からは,すべての研究所・センターがその傘下に入り,新たな北大の先端的研究の場を形成しつつある。本数学連携研究センターは横断的プラットフォーム作りの一翼を担うと期待される。

—数理科学を基盤としたインターフェイス人材の必要性—

上述の問題はすべて社会的ニーズの高い課題であるが,どれも多数の要因が複雑かつ階層的にからみ合っている。これらのダイナミクスを適切な時空間スケールに正確に翻訳し,長期的・短期的予測を試み,あるいは意志決定を整合的に行うためには数理科学の基盤の確立とそれを支えるインターフェイス的人材の十分な供給なしには今後の社会の存立基盤は危うい。人材育成においては,外国語と同様で,まずは数理的素養とその方法論の習得が必要であり,その逆ではない。あいまいさのない数理的表現により考える土俵の設定がうまくできれば,それは解決への合意に一歩近づくであろう。上述の問題群も含め,個別研究において北大はフロントランナーとしての多くの研究クラスターをもつ。しかしそれらを支える数理科学の横糸は十分でない。数学連携研究センターの設立は「孤立した知」から「つながる知」の横断的役割を果たし,長期的には革新的ブレークスルーを生み出す場となるであろう。

—なぜ数理科学がコアとなりうるのか—

自然科学,社会科学を問わず,そこに得られたデータや解析が正しく提示され,伝えられるには,数理的言語が不可欠であり,また諸学がどの程度「科学的」であるかはそれがどの程度「数理的」であるかで判定されることも多い。すなわち科学の共通言語としての数理の側面がそこにあり,いわば「有用な道具」としての位置づけである。しかし通常の言語においてもそうであるように,しゃべれることとその内容が正しく伝えられていることとは全く別のことである。同じ単語を使っていても異なる意味で用いたり,そもそも言語の構造自体が同じでないことも多い。それが異なる分野間の溝を逆に深めてしまうこともある。数理の力はその道具性や異なる言語の翻訳力にだけにあるのではなく,よりメタなレベルで異なる分野をつなげてしまう潜在的ポテンシャルの大きさにある。例えば論理学と数学の結びつきは,ゲーデルの不完全性定理やチューリングの計算論を生み出し,結果として現在の計算機の発展をもたらした。さらにそれは心理学と計算機科学の深いつながりのきっかけともなった。これらの例は哲学的と思われる内容に関しても,数学は万人が納得する内実を与えてしまう力をもっているのである。これは他の諸科学では起こりえないことである。しかし同時に注意しなければならないのは,チューリングの計算論においても元々は「論理的に考えるとはどういうことなのか?」という極めて素朴な疑問に根ざしている点である。もっと単純な例は先に挙げた,携帯電話でレストランを探す場合である。携帯電話はその人の過去の行動の情報をもとに,もっとも適切と思われる選択枝を選び出すが,その仕掛けは「ベイズの定理」という単純な確率論の初歩を用いているだけである。社会的ニーズが高い問題の多くは非常に素朴な発想や願いから発していることが多い。それに適切に応え,異なる考えをつなぎ,文理を超えて一定の合意に導く力は最も普遍性をもつ数理科学のみが担えるのである。

—なぜ北海道大学に設置するのか—

「創成科学研究機構における新たな横糸としての核として」北海道大学には数学専攻のみならず,なんらかの意味で数理科学に関わる研究者,研究クラスターが学院・研究院・研究所・センターに散在する。とりわけ数学専攻と電子科学研究所は人事交流も含め,21世紀COEプログラム「特異性から見た非線形構造の数学」(以下21COEとよぶ)を共同で推進してきた。その具体的な成果および今後のGCOEについては別項に譲るが,特筆すべきは,その基本的活動は数学を知の基盤的プラットフォームとするにはどのようなインフラを人的・物的に準備すればよいかを模索しつつ実践してきた点にある。「先端研究のための数学センター」や数学版グーグルを目指す「数学の海」という試みはその中から出てきたものである。とりわけ21COEプログラム委員会における中間評価において「先端研究のための数学センター」は数学活動の仕方の新しい提案であり,新分野開拓の可能性をも示していると極めて高い評価を得ている。これらを真に実践してきた21COEは日本において北海道大学の数学専攻が唯一であり,そこで得られた経験とknow-howは貴重な財産となり,これが数学拠点の周到な準備にもつながった一方,電子科学研究所は諸科学に開かれた数学を実践する場として重要な役割を果たしてきた。歴史的に電子研は戦前からの「応用数学部門」の伝統があり,光・分子・生命の多彩な先端的研究分野を有しており,同時に異分野間の共同研究を強く推進してきた。1研究所でありながら,そのスペクトルの広さは十分なものがあり,例えば様々な機能をもつ材料物性のoptimal designや生命科学における様々な問題の数理モデリングの「実験場」として理想的である。またそれは数学COE以外にも「バイオとナノを融合する新生命科学拠点」,「トポロジー理工学の創成」の2つのCOEとも連携を実施してきたことにも現れている。21COE が始まると共に数学専攻と電子研の間に具体的に人事交流の企画が生まれ,津田教授が平成17年10月より電子研に移籍し,ますますそのパイプは太くなりつつある。さらに平成19年度から電子研では本格的に附置研究所間連携事業「全国ナノテクノロジーネットワーク・ワールドビジターセンターによる中核的研究拠点間アライアンス実現に向けたポストシリコンの戦略的研究」(4研究所アライアンスと呼ぶ)が始動し,そこにおけるワールドビジターセンターの発足は開かれたネットワーク型研究所を目指す電子研の一つの重要な試みであり,この数学連携研究センターと共通した精神で作られている。
同時にこの数学連携研究センターは学内に存在する多くの研究クラスターのプラットファームとなるべく開かれたものとなっている。人獣共通感染症研究センター,脳科学教育センター,VBL,HSSなど多くの研究クラスターとの連携が期待できる。これらを束ねる創成研究機構の下で,この数学連携研究センターの果たすべき役割は大きい。
また北海道の冷涼な気候と札幌がもつ町としての魅力は日本のみならず,全世界からの訪問者をひきつける要素として重要となる。

—本学における中期目標・中期計画—

中期目標・中期計画では、目指すべき研究の方向性として「全地球的な新規課題への機動的対応を図り、新たな学問領域の創生、産業活性化への貢献という視点をより鮮明にした研究の推進を図る」とし、その研究重点領域の一つとして数理・物理科学が挙げられている。さらに、「基幹総合大学として、大学のみが能く担いうる基盤的領域における研究の今日的及び将来的意義を見極め、その成果を発展的に継承することに努めるとともに、近未来における人類の福祉への貢献はもとより、さらに普遍的な視点に立った研究の推進にも努める」とされている。21世紀COEプログラム「特異性から見た非線形構造の数学」を継承・発展させる形での「数学連携研究センター」の設立は、まさに、こうした中期目標・中期計画の実現を図るものである。